吉野源三郎 著『君たちはどう生きるか』
出版年:1937年
出版社:新潮社
「日本少国民文庫」の最終巻として出版された本です。私が読んだ岩波文庫版は丸山真男の回想付きで、おそらく岩波版が一番入手しやすいのでおススメ。
目次
まえがき
一、へんな経験
二、勇ましき友
三、ニュートンの林檎と粉ミルク
四、貧しき友
五、ナポレオンと四人の少年
六、雪の日の出来事
七、石段の思い出
八、凱旋
九、水仙の芽とガンダーラの仏像
十、春の朝
『君たちはどう生きるか』は全部で10章構成です。その中に、「おじさんのノート」という話も付属しています(むしろメインか)。
また、丸山真男の「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」が本編のあとに掲載されています。これも一読すべし。本編より先に読んでみるのもいいかもしれません。
明瞭な語り口で、思春期の学生たちに特有の、疑問・葛藤・友情・格差といった様々な要素をふんだんに使って、物語が進んでいきます。そしてすべてを読み終えたとき、コペル君と同じように読者も大きく成長している、という点にこの本の素晴らしさがあるように思えます。
この作品の時代背景
この話にも触れておきたい。1937年といえば盧溝橋事件が発生し、日中戦争へと突入していった年です。これ以前から日本(本土・外地問わず)では軍靴の音が近づいてきていました。1936年に二・二六事件が発生し、高橋是清や斎藤実らが殺害され、岡田内閣が総辞職。広田・林内閣を経て近衛内閣が成立。そしてついにその時が来てしまった、という時に出版された作品です。
徐々に言論と思想が統制されていき、かくあるべきという教えのみが正しいという時代に突入しました。同じ年(1937年)、人民戦線事件で多数の人々が検挙されています。そのような状況で「ヒューマニズム」を訴え続けた吉野源三郎。彼自身、1931年に治安維持法事件で逮捕されています。(共産主義とヒューマニズムとでは同一にできないとは思いますが、思想統制という意味では重要だっただろう、という意味で並べています)
吉野源三郎のメッセージを当時の人々はどう受け取ったのでしょうか。
80年たった2017年でも、それは変わらないのでしょうか。人の心は変わらないと私は信じたいです。
主な登場人物
コペル君 ― 本名、本田潤一。背は低いが頭がよく運動も得意。級長にはなれないが、人望はないわけではない。
おじさん ― 法学士。母親の弟なので叔父にあたる。コペル君という名前の名付け親。
北見君 ― 仲の良い友人。ガッチン。背が低いが、ガッチリとしていて性根は素直でまっすぐ。早稲田びいき。
水谷君 ― 仲の良い友人。背が高くすらっとしている。小学校時代からの同級生。お金持ちであるが、気取るところはない。慶応びいき。
浦川君 ― 仲の良い友人。物語の途中から仲良くなる。優しい男の子。
この登場人物のなんと生き生きとしたことか!他の人々もとってもいいんですよね。
特に印象的なのが北見君。自分の間違いを素直に認めたり、友達のために級友とも喧嘩をしたりと、間違っていると思うものに毅然と立ち向かえる強さを持っているナイスガイ。
感想
この作品については私が語るよりも素晴らしい書評がたくさん出ているので、そちらを読むことをおススメします。
昔にも読んだことのある作品です。しかし、大人になってから読んでもやはり学ぶことの多さについつい頭が下がります。そして、自分が昔から変わってもいるし変わってもいないのだとわかりました。
ひとつ不思議だったのは、昔はもっと明確におじさんという人物像を描けていたような気がしたのに、改めて読んでみたらおじさんという人物が昔よりもはっきりとしないことでした。これは何故なのでしょう?考えてみることにしました。
自分がこの作品に惹かれたのはやはりタイトル。『君たちはどう生きるか』というタイトルからすでに、読んでみたい気持ちになりました。なんとなく「べき論」とか「釈迦に説法」といった内容なのかしら、と思ったものですが決してそんなことはなく、最後に一つの問いかけをして終わりを迎えるその言葉こそ「君たちはどう生きるか」なんですよね。
ひとりひとり人間には少年時代があり、大人になっていくという営みの中で発芽していく感情や葛藤や迷いが、さらに作品を魅力的なものにしていきます。主人公・コペル君を通じて描かれる、少年時代に特有の自由な発想力と徐々に大人になっていく過程を難しい言葉ではなく、だれにでも存在していたような身近な出来事から描いてゆく。内容も素晴らしいのですが、構成が非常に素晴らしいですね。
おじさんのノートを通じて説明されるコペル君が経験した出来事の数々。子どもの感じたことを、大人のおじさんが大人の言葉で補っているという点に素晴らしさが見て取れます。このことは「社会科学的認識」という言葉を本の表紙でも指摘されていますが、単におじさん一人の個人的な言葉ではないのですね。
本文でも触れられていますが、地球が誕生し、様々な生物が誕生し、人間が誕生して今日の我々に至るまでの間には大きな歴史の川が存在しています。その中で培われてきたものを、学問や宗教や倫理や規範という形で今の我々は理解できるようになりました。それはやはり教育や学習による成果なのでしょう。
それを一個人としてではなく、社会全体の立場から考えてみたときに、「社会科学的認識」が重要になってきます。社会科学とはまさに学問の類型の一つのように思えますが、その一つ一つはこれまでの一人一人の人間が経験してきたことに他なりません。ただ、それは相対主義であるということを意味していないということは、すぐお分かりになると思います。
自分が経験した出来事が他の人と比べて上だ下だということではないということですね。身分でいえば確かにお金持ちや貧乏というものはあるし、運動のできる・できないもあるし、勉強ができる・できないもあります。
しかし、それは「自分から見たら」の世界、もしくは特定の狭い世界での話題で終わってしまうことがほとんどです。自己中心的な子供の世界のことが本文では説明されています。自己中心的ではなく、広大な歴史という川の流れの中で、位置を明確にし、それが何を過去に生み出してきて、これから何を生み出せるのか。「社会科学的認識」の意義はあくまで未来を向いているのですね。
おじさんの言葉は歴史の中で紡がれてきたこれまでの人々の総体に他なりません。子どものころ読んだ時より、大人になって読んだときのほうがおじさんという一個人がどんな人なのか、ということが分かりにくいと感じるようになるのは、おじさんが歴史的な様々な知識や知恵の結晶、それ自体であるからなのでしょう。(逆に子供のころは、自分の叔父や伯父の姿かたち言葉でこの作品のおじさんを想像しているということですね)
ちょっとおじさんについて熱く語ってきましたが、実は自分がこの作品で好きな理由は2つあります。友人同士の友情と、力強さです。
友人同士の友情は漫画やドラマやアニメなどでよく描かれるものですね。しかし、この作品の友情は読者に強烈な共感を抱かせます。やはり、過去に似たような経験をしている人が多いからなのでしょうか。それとも吉野源三郎自身がおそらく経験した出来事の生々しさがよく表れているからなのでしょうか。いずれにせよ普遍性を持っているんですよね。
特に約束を破ってしまったコペル君と北見君たちが顔を合わせたシーンがいいんですよね。自分の弱さを認めて謝ったコペル君。そして、それを許してくれた北見君たち。
何がいいって、対面しただけで急にコペル君が明るさを取り戻していくのがいいんですね。言葉を超えたところに彼らの友情が昇華したことを感じさせるシーン。自分もこんな風な作品を書いてみたいです。
そして力強さですが、まずは弱さについて。本文でもおじさんのノートで書かれていますが、弱いことで不幸になってしまう人もいるんですよね。しかし、一つがだめだからと言って全部がだめなわけではないと。浦川君は学校で居眠りばっかりで成績もよくないし、運動もだめだし、お金持ちの多い学校なのに貧乏だしと、コペル君との格差が描かれています。でもコペル君はそうした面で浦川君を決めつけるのではなく、自分がまだできていない「生産関係」を立派に果たしている友人として見ています。
浦川君はそれを誰かに自慢するようなことはしてきませんでした。でも、コペル君に「店にあるモーターを運転させてあげよう」と約束をしたのを見ると、無意識にちょっと自慢してみたかったのかな、なんて思います。そこに自分は浦川君の力強さを感じたんです。だから、きっと浦川君は将来は立派な人になったんだろうと思います。
力強さといえば、水仙の芽の話。掘って掘ってようやく根を掘り出せた場面です。これは人間関係としても、膨大な歴史にしても、一個人にしても解釈できる話だと思います。それはこれまで描かれてきた話がいかに、大切なものであったのかを、自覚させるものでした。
話がまとまり切りませんが、まあこの辺で感想を終わりたいと思います。
最後まで閲覧ありがとうございました。